信仰
山岳信仰さんがくしんこう

 赤城山は古来、その雄大なる山容と、変わらぬ美しさから、人々の心をとらえ、
神霊おわします山として信仰されてきたのです。

古代、神様は現在のように神社にお祀りされていたわけではなく、
人々の住む村から遠くはなれた処に、住まはれると信じられておりました。

神様の住まはれる聖地が、山であります。

こういった信仰は、山岳信仰と呼ばれ、各地に存在するのです。
また、このような信仰の対象となる山は「神体山」と呼ばれています。
 
これには、山そのものと同時に、雪、雷、風等の自然現象や、噴火、噴煙などの現象、
また、ここから流失する水などの条件を伴うのが一般的です。

これらの現象は、人々に神秘感や畏怖感を与え、また、山に残る雪によって耕作の時期
を知り、雲により天候を知るのです。

山にたち込める雲は、雷を山から運び、流れ出る水は、稲作、生活の水として、
恩恵に対する感謝の気持ちをも生むのです。
 
神奈備山かんなびのやま

 山は神聖な神様の住まはれる処であるとともに、御先祖様の御霊の住むところでもあるのです。亡くなったあと、霊魂が昇る山であります。

また、仏教の思想とあいまって、極楽や地獄といった発想がおこり、いろんな地名を生むのです。

 
山の女神やまのめがみ

 山には女神がおはしまして、たくさんの神様をお産みになり、その神々が山をお守りしているのです。
ですから、子供を授かりたいときには山に行き、山の女神様に、子授けを願いに出掛けるのです。

そして、山の女神様は、同時に安産の神様でもあります。

むかし、お産は産屋という建物で行はれ、この建物は山から流れる川辺に建てられておりました。
これは、山の女神様のご利益とともに、山の神様から魂をいただくためであります。

昔話に、山から流れ来る川から魂をもらい、その魂によって子供が生まれてくる。
そんな内容が多くあるのは、こういった信仰によるためであります。

山は神聖なるところであり、また、母なる存在でもあるのです。
 
山と天上界やまとてんじょうかい

 日本の神話を記した、「古事記」「日本書紀」にもあるように、
山は神様が天上界より降りて来られるところでもあります。

山頂にあって、雷の落ちる大木は、神様の降臨される木と崇められます。
また、滝は上に昇ると、神様の世界へつづき、その地下は黄泉の国(死後の世界)へとつづくと、信じられていたのです。

 
山岳信仰と神社
卯月八日
(四月八日)

 かつては、山に住まはれる神様を、麓の村にお招きし、お祭りが行われておりました。

祭場も清浄な場所が選ばれ、大木や巨木を依り代として、ここに神様に御降臨いただき
お祭りが執り行われたのです。
現在行われている、地鎮祭を連想していただければ、解り易いと思います。

そして、お祭りが終われば、再び山へお帰りいただくのです。

また、柳田國男氏によれば、旧暦の卯月八日は、山の神様が里に降りて田の神となり
農耕を守ってくれるという信仰があり、十月八日には逆に、田の神が山に昇り、山の神
となる日とされております。

しかし、赤城山麓の伝承、行事によれば、「山の神」と「里の神」の交替を意味するとも謂われ、卯月八日(四月八日)は、里で過ごされた神様が山に戻り、
山に籠もった神様が、里に降りられる日とも考えられておりました。

冬季間、修験者は霊山奥深く修行を行い、春になると麓に下り、里人に神仏の教えを諭したのです。

また、動物のなかには、冬の間、山に篭り冬眠するものがおります。
彼らもまた、山の神様から力をいただいた神様のお使いなのです。

「みたまのふゆ」という言葉があります。
秋に山に籠もり、山の力をいただき、春に里に下り人々を守るとも信じられていたのです。

神様が季節により山と里を往き来される。
これが、山岳信仰における神社の「山宮」と「里宮」の起源であるとされております。

山宮と里宮は、対を成し一つの神社を形成していたと考えられます。
次第に、社殿を設け神様を常時お祀りするようになると、この形態が薄れてゆくのです。

現在、赤城神社(大洞・元宮)で行われる「山開き祭」は、この名残であり、明治以降、
新暦の5月8日に改められたもので、それ以前は、4月8日に行われていたのです。
 
神社
社殿の歴史

 現在では、どこの神社へ出かけても、神様は建物に祀られ、その施設を整えております。
しかし、かつては、現代の様式とは、かなり異なるものでありました。

神社を意味する「社」・やしろという字は、「もり」と訓まれ、「杜」と同意味に使われていたのです。「社=杜」すなわち、森の中の清浄の地です。これが神社の初期形態です。

また、祭の執り行われる地は、「忌庭・由庭・斎庭」(ゆにわ)と謂われており、
穢れを忌む神聖な場所であったのです。

また、「磐境」(いわさか)とは、岩に囲まれた神聖な場所であり、巨木や岩を招代として、
神様に降臨いただき、祭事が行われたのです。

これが、次第に祭場が特定、固定化され臨時に屋舎を設けるようになります。
そして、常設の神殿へと変化して行くのです。

この神社の初期形態である神殿は、神霊の招代である、神宝や物実(ものざね)を収める場所や倉、つまり「祠・神庫」(ほくら)であったのです。

森の祭場で行われていた祭祀が、その祭の数を増すことによって、仮屋(やしろ)、
常設の宮・御屋(みや)へと変遷して行くのです。

これには、仏教の伝来、また、飛鳥から大和時代に導入された仏寺建築の影響によるもので、その壮大さに触発され、社殿が創建され、地方へも波及していったのです。

平安時代の「延喜式」神名帳(10世紀)によれば、全国3132座の神様のうち、
492座が名神大社とされ、これらの大社には毎年、数度の祭典に神祇官や国司の参向があり、それに対応して、社殿や施設が整えられていったのです。


       神庫山の祖霊祭

赤城神社 蔵

 
神社の系列化じんじゃのけいれつか

 神社の社殿化は、全国に及び整備される一方、中央集権的な国家祭祀に系列化され、
地方独得の古代祭祀の衰退を意味するものでありました。

平安時代には、神祇制度も整備され、諸国の神社に、神階の授与が行われ、
諸国の神名帳や総社、一之宮の制度が出来てくるのであります。
 
 赤城神あかぎのかみ
神位昇叙

 全国の神社の系列化にあって、「赤城神」が神階の授与を受けるのは
「続日本後記」承和六年(839年)六月甲申・従五位下。

「日本三代実録」貞観九年(867年)六月正五位下、
同年十二月・正五位上、同十六年三月従四位下・元慶四年(880年)
「赤城沼神」従四位上を授かる。

また、「延喜式」神名帳(10世紀)には「正一位赤城明神社」と記され名神大社に列せられており、
「上野國交代実録帳」長元元年(1028年)にも、正一位に叙せられていた記述があります。


 
神仏習合しんぶつしゅうごう

 中国より渡来した仏教は、奈良時代になると、日本の神々と融合し始め、
神社に神宮寺がたてられ、全国的な広がりをみせたのであります。

また、10世紀中頃には、本地垂迹が現れます。

これは、日本の神様は、仏様が姿を変えて現れた化身であるとし、
その本体である仏菩薩を本地仏とし、平安中期になると、
多くの神社で、祭神の本地仏を特定するようになるのです。
 

        新坂平
 
神道集しんとうしゅう

 本地垂迹説のもと、当時の有名神社の縁起を説いた説話集があります。
これは、京都の安居院で編纂されたもので、文和・延文年間(1352~61年)に成立したものとされております。

この「神道集」に「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」(巻七)
赤城大明神の縁起(由来)の物語が記されております。

唱導のための語り物であり、唱導師たちによって、天台の教義や法華経の功得を、広めるためでありました。
しかし、当時、既に赤城大明神が広く信仰されていたことが、うかがい知れるのです。

また、「上野国赤城山三所明神内覚満大菩薩事」(巻八)・
 「人皇十九代允行天皇の御世(五世紀の頃)、近江の國、美濃の覚満は諸国修行の後、
 赤城山に至り、水辺にて法華経を読経する。
 上毛野神々をはじめ、諸国の神々集まり聴聞する。
 その功徳により、覚満大菩薩となる。
 本地仏は地蔵菩薩。
 大沼は本地仏、千手観音。
 小沼の本地仏は虚空蔵菩薩をあて、赤城三所明神と謂う。」

以前は、赤城神、赤城沼神、赤城石神、赤城大明神と表記されていた赤城神が、
「神道集」には、具体的に信仰の対象が、大沼、小沼、地蔵岳の三箇所とされ、
赤城三所明神と表記されています。

     

「十六者上野國九ヶ所大明神」(巻三)
上野國の九ヶ所の神社の説明がなされており、赤城大明神は、二宮とされている。
一宮から九宮まで格付がなされ、十二世紀の頃に成立したと推測されています。
 「二宮 赤城大明神」
     大沼  千手観音
     小沼  虚空蔵菩薩
     禅頂  地蔵菩薩
 と、赤城大明神の三所が記されております。
 
 赤城神社
赤城神社の歴史
赤城神社の施設あかぎじんじゃのしせつ

 「赤城神」の名は時々にその呼び名を変えるも、既に述べたように多くの書物に登場するのですが、
赤城神社についての記述は、十一世紀まで時代を進めるのです。

長元元年(1028年)、「上野國交代実録帳」には、赤城神社の施設についての記述が残されております。

  勢多郡
   「正一位赤城明神社」
  御玉殿一宇 御美豆垣一廻板玉垣一廻 御向殿一宇 御幣殿一宇 大門一宇
  鳥居一基 荒垣一前(東・西) 館屋一宇 陪従屋一宇 厨屋一宇 
   件七年一度有大修造之例 當任當件修造之年 仍皆新所修造成

御玉殿とは、神宝(かむだから)を、お納めした建物であり、宇とは、家や屋根を意味し、古くは建物を数える時に用いられた言葉です。

御美豆垣・おんみずがき(内側の囲塀)一めぐり、外側の板塀一めぐり。
御向殿、祭礼のために使われた建物。
御幣殿、みてぐら(御手座)、御神霊の招代を祀る建物。
大門。鳥居。荒垣(玉垣、塀)東・西に。
館屋、やかた。陪従屋。厨屋、くりや。
七年に一度の造作の例、修造の年に当たり、皆、新たに修造をする。

赤城神社の施設についての記録です。
 
赤城神社の所在あかぎじんじゃのしょざい

所在地を示す記述は、「神道集」(巻七)の、
  「大沼、小沼の畔に、それぞれ社を建てた。」
とあるのが最も古い記述であります。

また、赤城神社に残される記述によれば、
  「大洞元年(806年)、小沼から見上げる神庫山の頂(中腹)より、大沼、小沼の畔に社を遷宮する。」とあり、近隣の村にも同様の歴史が伝わっております。

敷島村津久田の赤城神社に伝わる記述によれば、

  「・・・大同元年、赤城山頂大沼の畔に遷祇せり。その旧い社を大同四年、
  津久田に移し里宮となす・・・」

とある。

 赤城神社所在を示す記録であります。

      【右】大沼・小鳥ヶ島 【左奥】小沼
 
山岳信仰と神仏習合
(本地垂迹説)

 山頂の赤城神社は「大洞赤城神社」と呼ばれておりました。
これは、大同元年の遷宮にちなみ、水辺のこの地を大洞と名付けたと記されております。

大同年間には、赤城山近隣の地に、寺院が多く建立されております。

粕川村月田の層塔を建立した僧道輪、浄法寺創建の僧道忠、
二荒山を開いたと伝える僧勝道が活躍した時代であります。

ことに、僧勝道は赤城山を開いたとされております。
彼らは、聖地を求めて、山野を歩き修行の場として開山するのです。

最澄は比叡山に延暦寺を建て、空海は高野山に金剛峰寺を建て、天台宗、真言宗の中心地としたのです。

時代は、まさに、そんな渦中にあったのです。


「本地垂迹説」とは、日本の神の本地は仏であり、インドの仏が日本を救うために、神として現れたのである。
日本の神は仏であり、仏は日本の神である。仏を拝むことは神を拝むことと同じであるとされたのであります。

山岳仏教の興隆期が、もたらされ、寺院が山岳に建立され、その山の神が併せ祀られたのです。

「神仏習合」とは、仏教によって、日本古来の神道が吸収されたのではなく、
仏教が日本に馴染む過程で、神道と融合していったのです。

赤城神は、「神道集」に代表されるように、山岳仏教と融合し発展したのです。
赤城山内には多くの塔、堂、寺院が建てられ、盛んに信仰されておりました。

つまり、神仏習合は、神道、仏教双方の歴史であって、赤城神の歴史・赤城神社の歴史でもあるのです。

八世紀以降、国分寺を全国に建立することによって、天皇を中心とし、
仏の力による統治・平和という政治姿勢が示されます。

まさに「国家仏教」の時代であります。

「続日本後期」承和六年(839年)従五位に始まる神位の昇叙の時代です。

赤城信仰の中心は、山岳仏教の修験者によって、山頂の山宮に移され発展し、
神仏習合は、明治維新までつづくのです。

赤城神社(元宮・大洞)が、この信仰を継承しているのですが、
それ以前の信仰の中心的な社が考えられます。

里宮の存在であります。 
 
二之宮赤城神社にのみや あかぎじんじゃ
前橋市ニ之宮町鎮座

 現在の前橋市二之宮町、かつては、勢多郡でありました。

二之宮町付近の地形は、農耕に適した肥沃な土地が広がり、古い時代から栄えた地であります。
この付近には、七世紀から九世紀にかけての遺跡が多数存在するのです。

原始山岳信仰の形態からしても、祭祀を行った場所は、居住地の近くであり場所が次第に定着し、祭場となり神社の発生を見るのです。

赤城山の真南という地形からして、また、この二之宮という地名は、十二世紀頃に始まったとされる、神社の格付けである二之宮が、そのまま地名になったものとされます。

現在の、二之宮赤城神社の境内には、鎌倉時代と推定される塔の基礎石組や、
大洞にも建立されている「多宝塔」と呼ばれる石塔が残されております。

古い時代の赤城信仰の中心社であったのです。

しかし、その後、武士勢力の台頭・朝廷権力の低下と時代は進み衰退し、
戦国の世(天正四年・1576年)南方氏(北条氏)によって破壊、再建されるまで永い時間を要したのです。

江戸時代に再建されるも、残念ながら御祭神、歴史の継承はなされたかったようで、三夜沢赤城神社の、二之宮(次宮)として位置付けられてしまいました。
そのため、天正四年に大洞に合祀された御神体は、そのまま現在に至っています。

では、なぜ大洞に合祀されたかといえば、山頂と里の関係が保たれていたからです。
三夜沢は三夜沢村明神であり、赤城神社ではなかったからです。

赤城神社は、二之宮社・赤城明神社が当時、存在していたのです。


 
大洞赤城神社だいどう あかぎじんじゃ
勢多郡富士見村赤城山鎮座

 大洞について、厩橋(前橋)藩の記録を見ると。
慶長六年(1601年)、武蔵国川越から厩橋藩主として、譜代大名酒井重忠が入封するや、
赤城山に登拝し、国内の平和と安全を祈願し、
「赤城大明神・赤城神社」
の改築を幕府に申し出、その工事を完成します。

この時、酒井家の弥栄を、併せて祈願するのです。
「酒井河内守重忠殿、赤城山不残建立被仰付事」

また、慶安二年(1649年)酒井公は、三夜沢村明神(後の三夜沢赤城神社)に五十石の領地を寄進し、受取は奈良原家広神主の署名で受け取られております。

当時、「赤城大明神」は、赤城山大洞の赤城神社であり、
三夜沢の赤城神社は、「三夜沢村明神」であったことが判ります。

次ぐ藩主、酒井忠世は、慶長十五年(1610年)幕府老中に、寛永十三年(1636年)大老に就任します。

元和二年(1616年)には、徳川家康が亡くなり、久能山に埋葬されるのです。
徳川秀忠は元和二年~元和三年(1617年)日光東照宮造営の任にあたり、家康を改葬したのです。

元和九年(1623年)には、徳川家光が将軍となり、寛永十一年(1634年)から、
一年半の月日をかけ、日光東照宮が大改修されるのです。

酒井忠世は、家康、秀忠、家光の三代に仕え、最も信頼を得ていた幕閣だったのです。
日光東照宮造営の後、酒井氏が信仰する「赤城大明神・大洞赤城神社」に徳川家康を合祀したのです。

  「酒井雅楽忠世様御世於赤城山御祈祷御願成就之上社頭不残又又御建立被仰付候」

徳川家光は、寛永十八年(1641年)、
落雷による火災で焼失した大洞の赤城神社の再建を藩主酒井清忠に命じ、翌年完成します。

また、これ以後、厩橋藩より衛守役が派遣され常駐するのです。

酒井忠清は、承応二年(1653年)老中に、寛文六年(1666年)に大老に就任し、
下馬将軍と異名をとり権勢をふるったのです。

この様に、大洞赤城神社は酒井家の守護神とされ、酒井氏を通じ、
大洞は将軍家の特別な保護下にあったのです。

この関係は、寛延二年(1749年)、酒井忠恭の播磨姫路に移るまでつづき、
後、移封する親藩大名松平朝矩も、赤城大明神を信奉するのです。

しかし、松平家の経済は時代の推移と共に困窮し、藩政への圧迫、
幕府での発言権の失墜は大洞への経済支援の低下へとつながったのです。

武家社会の崩壊の前兆であり、幕藩体制の崩壊の前兆でもあったのです。
復古思想・(復古神道)の台頭、尊皇攘夷・倒幕へと時代は向かっていくのです。

         赤城神社 旧一之鳥居
 
反本地垂迹説と赤城神社

 本地垂迹説における、神仏の関係を逆にした神仏習合説が、鎌倉末期から神国思想の高まりと共に出現し、
無住の「沙石集」しゃくせきしゅう、慈遍の「旧事本紀玄義くじほんぎげんぎ」を経て、
神の仏に対する優位的立場をとる思想が生まれてくるのです。

また、室町時代に吉田兼倶の「神をもって万法の根本とする。」という吉田神道へと展開します。
反本地垂迹説・吉田神道と、神仏の優位を逆転する思想の流れを受けて、復古思想が広がりを見せるのです。

江戸時代中期、国学の研究を通じて「日本書記」「古事記」などに記されている、
古代の神観念が注目され、その精神への回帰を主張する思想が生まれたのです。

荷田春満、賀茂真淵、本居宣長等は、仏教、儒教などの外来思想を廃し、古神道を唱えたのです。
この思想を大成させたのが、平田篤胤です。

国体を重視し、日本精神を強調し尊皇攘夷運動思想の基となるのです。

三夜沢村明神に於いても、十七世紀後半に至ると、復古思想の影響が強烈に現れ、
神祇を主体とする思想が取り入れられたのです。

大洞の赤城神社が、神仏習合のもと赤城大明神を祀り、寿延寺の別当職が神社を管理する任に当たり、
幕府の保護のもと、厳密な運営が成されていたのに対し、神道形式の祭祀が持ち込まれ易い土壌があったのです。

「太神宮鎮座本紀」が書かれ、豊城入彦命を赤城神社の祭神とし、神主家をその末裔と称し、赤城神社本社説がまとめられたのです。
また、これには高山彦久郎の大きな影響があったのです。

赤城山の神である赤城大明神を祀る大洞の赤城神社は、何時しか、
  「卑しき山霊の神を祀る神社」
とされたのです。

ここに、地域山霊を祭神とする大洞赤城神社と、豊城入彦命を祭神とする三夜沢赤城神社に祭神が大別されたのです。

その後、二宮を従属社、大洞を分社と位置付けたのです。

この頃大洞赤城神社では「赤城神社・奥社」「赤城神社・奥之院」の呼称が一般的に用いられておりました。
かつての二ノ宮の山宮であるとし、三夜沢の分社を否定、三夜沢を本社とは認めておりませんでした。
そのため、三夜沢から執拗な攻撃を受け続けたのです。
しかし、大洞は三夜沢とは異なり「本社は存在せず」を主張し続けたのです。
 
神仏分離と国家神道

 時代は、復古思想、尊皇攘夷、倒幕、王政復古へと流れを加速して行きます。

幕末には、廃仏毀釈が起こり、各地で仏教施設の破壊が横行したのです。

赤城山(大洞)に於いても、大塔・薬師堂・虚空蔵堂・地蔵堂が次々と焼き討ちにあい焼失したのです。

大洞赤城神社別当職は、暴徒からの襲撃を防ぐために厩橋藩に施設の警護を依頼し、
自らも自衛手段を講ずるのです。

無宿人の「猪公」なる無頼漢を筆頭に、神社護衛役が雇われ、暴徒等の襲撃から神社を護りぬいたのです。

明治元年には「神仏分離令」がだされ、神仏習合の寺社から、神と仏の峻別がされ、
「国家仏教」から「国家神道」の時代に変わって行きます。

太政官により、神社の祭神があらためられ、記紀神話の祭神へと変わります。
 
近代社格制度

 明治政府は、神仏分離令に続き、神道の国教化政策をとったのです。

神社を国家制度の中に取り入れ、大日本帝国憲法の発布によって、信教の自由が規定されると、
すべての宗教の上に神道を位置づけ、国家神道をつくりあげたのです。

政府は、天皇の皇祖神を祀る伊勢神宮を頂点とする、
官幣社・国幣社、県(藩)・郷・村・無各社の格つけを行ったのです。

明治四年(1871年)五月の太政官布告により、近代社格が制定され、郷社定則によって、
戸籍一区に一社の割合で、郷社が制定されました。
その地域の産土神うぶすなかみを祀る神社が、これにあたりました。

その後、二之宮・三夜沢・大洞の赤城神社は、郷社に列せられます。
 
昇格運動と三夜沢赤城神社

 この後、社格の昇格運動が活発に行われるのが、旧宮城村三夜沢であります。

神社の昇格の基準とされた、基本財産の増額のために、村民こぞって神社に、
寄付行為がなされたのであります。

その甲斐あって、難なく県社にまで昇格するのであります。

次に試みられたのが、官弊社、国幣社への昇格運動が起こされ、
試みられたのでありますが、功を奏しなかったのです。

 
昭和の昇格運動と
三夜沢本社説の結論

 三夜沢の赤城神社も、その昇格運動は息をひそめておりましたが、
昭和十年に再び、運動が起こったのです。

昭和九年十一月、県下で陸軍特別大演習が行われ、十日~十八日の間、天皇陛下が行幸されたのです。
十一月十六日、桐生市で天皇を誘導する警官が、誤誘導事件を起こし、大変な問題となったのです。

当時の県知事、君島清吉氏は、沈滞した社会の空気と、事件による県民の精神的萎縮を一掃する目的で、
「東国経営聖業奉賛大祭」を計画し、古墳祭と呼ばれた県下古墳の一斉調査を行い、国威昂揚を唱えたのでした

この時、宮城村でも三夜沢の赤城神社昇格運動が、この期をとらえて起こったのです。

赤城神社昇格実行委員会が組織され、委員が村民より選出され、国幣社昇格に必要額に達するまで、
神社基本財産の増額のための寄付金集めに、村民一丸となって、奔走したのです。

粕川村選出県会議員、鎌塚酉次郎氏が、精神高揚の祭典の一環として、県民に呼びかけ、
その統率にあたったのです。

内務省神祇院の押木耿介氏、大場磐雄博士が調査に群馬県を訪れ、赤城神社の調査にあたり、
赤城神社の主祭神は、山岳信仰に端を発する赤城神(赤城大明神)であり、
豊城入彦命では歴史の継続性が証明できず、大洞・二之宮の赤城神社の協力が不可欠とされたのです。

また、調査にあたられた尾崎喜左雄博士(後の群馬大学教授)も、
三夜沢赤城神社を本社とする説には、当初から異論を唱えておりました。

尾崎博士は、三夜沢赤城神社の調査を群馬県より依頼され、長年にわたる調査の結果。
「ここに存在したとされる東西両宮の神社は、延喜式内社とも本社とも関係ない神社である。」
と結論づけたのです。

そこで、三夜沢では、
「卑しき山霊として、忌嫌っていた赤城山の神・赤城大明神」
を急遽、「赤城大神」として祭神に加えたのです。

赤城の山霊の神なしには、赤城神社は存在しなかったのです。

このことによって、三夜沢に、二之宮・大洞、と共に赤城神社としての歴史の継続性を発生させたのです。

また、この神社が、その時代に果たした功績を認め、
   「大洞・三夜沢・二宮・各社を、元宮(上社)・中宮(中社)・本宮(下社)とし、
   本末同一社として国幣中社とするという内示が出され、各神社宮司に辞任要請がなされたのです。
   新たに内務省より宮司が派遣されることとなったのです。」
     (内示通達書)
昭和十九年のことでした。
三夜沢の神話に配慮しながらも、赤城神社の歴史に軍配が挙がる結果となりました。

 しかし、昭和二十年に戦争が終わり、世の中は様変わりしました。
国家による神社の護持も、社挌制度も廃止され、国幣中社昇格は実現されませんでした。
しかし、その信仰は変わることなく、赤城神社は古代からの祭祀を護り伝えております。
赤城の神様は現在もなお、人々の心の支えであります。

 
 赤城神社資料
 
「続日本後記」承和六年六月甲申   (839年)
 奉授上野國無位
抜鉾神 
赤城神 
伊香保神
並従五位下 
 
 「日本三代実録」貞観九年六月丁亥  (867年)
 授上野國従四位下勲八等貫前神従四位上
 従五位下 赤城神
 伊香保神
並正五位下
 
「日本三代実録」貞観十一年十二月戌申(869年)
授上野國正五位下 赤城神

「日本三代実録」貞観十六年三月葵酉 (874年)
授上野國 赤城神 従四位下
「日本三大実録元慶四年五月戌寅  (880年)
授上野國正四位上勲八等貫前神従三位七等
従四位下 赤城沼神
伊香保神
並従四位上
 
「延喜式」巻第十 神祇十 
神名下 東山 北陸 山陰 山陽 南海 西海
東山道神 
三百八十二座 
大四十二座 内五座月並新嘗祭案上預
小三百四十座
上野國十二座 大三座 小九座
 勢多郡一座 大
 赤城神社 名神大

「延喜式巻二十裏文書」「上野國交替実録帳」長元元年(1028年)
 勢多郡
 正一位赤城明神社
 御玉殿一宇 御美豆垣一廻板玉垣一廻 御向殿一宇 御帛殿一宇
 大門一宇 鳥居一基 荒玉垣一前東西 館屋一宇 陪従屋一宇
 厨屋一宇
 件社七年一度有大修造之例 當任相當件修造之年 依皆新所修造也
 
「万葉集」
賀美都家野 久路保乃禰呂乃 久受葉我多 可奈師家児良尓 伊夜射可里久母
 
「金槐和歌集」
上野のすたの赤城のから社 やまとにいかで跡をたれけむ

 
「神道集」
 巻第三 十六者上野國九箇所大明神事

一宮拔鉾大明神申、俗體彌勒菩薩也、此佛是減却第五如來、當來三會敎主也、女體觀音也、此佛是大悲闡提大菩薩、能施無畏大士也、此御神金光明經體也、
二宮赤城大明神申、總三所御在、大沼本地千手也、妙覺高貴體、寂光都靜、遍應法界光、娑婆塵交、善巧方便故、極果押、利益衆生故、身等覺息、小沼本地虚空藏菩薩也、此佛是十地究竟大士、三有利生權化也、香集世界在、引導能化、娑婆國來、甘露願王、虚空ト庫藏、大千差珍寶、禪頂本地々藏菩薩也、此佛是忉利天上、補處大士、無佛世界、引導上首、釋尊付屬鷲嶺受、汲引船筏廣海浮、諸佛執持智杖振、自界他方勸給、
三宮伊香保大明神申、湯前崇時、本地藥師也、此佛是東方淨土敎主、十六王子最初也、昔萬乘主、七住支佛供、今三界尊、二六大願弘、里下、本地十一面觀音也、亦大光普照觀世音申、此佛是久遠却間、未來際盡、永不成佛願發、斷善闡提輩伴、此亦何故、我等衆生爲也、是以法相宗人師判云、大悲菩薩成佛理無、有性成佛故也、閑此交意案、涙連々不留、何菩薩、闡提願發、何我等、彼恩德報、
四宮宿禰大明神申、本地千手觀音也、亦大悲觀世音名、此佛是利物本懷、遮地獄、爲極重衆生往、拔濟心深、鎭西方在、内法性身入、琰王前跪、外分段膚顯、獄卒杖任、
五宮若伊香保大明神申、此本地千手觀音也、此佛是足細杖色飜、七寶莊嚴萼開、鐵湯波留、八功德水流澄故、釋迦大慈大悲讚、菩薩令發無上心演給、乃至鬼畜修羅人天善利益蒙云事、
六宮春名滿行權現申、本地々藏菩薩也、此佛是善根所成寶珠捧、世間出世資財與、一時禮拜功德、自他九胝却仰養勝、毎日入定誓、三惡趣沈苦畏事無、慈悲相隱、獄卒前跪、罪福帳注、隨縁形中有道現、七宮澤宮、小祝申、本地文殊也、此佛是亦妙吉祥名、亦金剛利號、顯蜜兩敎亘名立事、各々不同也、定其意有歟、總此尋、佛母譽、尊師稱信、十方國土諸佛、此菩薩以覺母、三世常住如來、此大士以導師、八宮那波上宮、火雷神申、本地虚空藏菩薩也、此佛是福智成就菩薩也、智惠求、壽命欣、福德乞、官爵祈者、此菩薩歸依、圓滿云事、乃至證大菩提、偏此大士力也、
九宮那波下宮、少智大明神申、本地如意輪觀音也、亦名大梵深音觀世音、凡此菩薩言語境界非、思慮忘、無量無邊却間、此讚盡、若人觀音念、種々吉祥念隨自求、九重淵至財倉滿、鬼神威借、伏藏家在、五穀類垂、絹露以大海加、塵埃以迷盧足、
九箇所本地忝事、誠言語及難、此合九箇所申也、總社申、亦本地普賢也、此佛是等覺無垢大士、餘有一生尊師也、三昧王、十願德傳、六牙象乘、六根罪滅、無縁慈悲普法界覆、應垂床内、無垢誓願大虚混、身紙閣現、忝御本地釋所也云々、


 巻第六 卅四上野國兒持山之事

抑日本人王卌代、天武天王御宇、伊勢國渡會郡荒人神顯、上野國群馬郡白井保跡垂、兒持山明神御事傳承、心詞及、其故何尋、阿野津云處地頭、阿野權守保明申、四方四萬庫立、財寶飽滿、一人子無事悲、伊勢大神宮祈申、大神宮御示現依、兒守明神祈申、七日滿曉、御寶殿内、廿二三見女房、左袂唐鏡給見夢覺、下向後、阿野女房程懷妊、日數積、天智天王御宇七年戊辰年三月中半比、最安御産取擧見、鏡如雲無姫君御在、父母共大喜、兒守明神賜、御名子持御前云、兒持御前呼、是過行程、形人勝、情世超、斯、家一大事賞遵、此姫君御年九申秋中半、母御前御年三十七終墓無成、保明歎、姫君御悲、喩取物無、昔今至、惜留習、葬送、花體引替、非形見立、一周忌御孝養、千部法花經讀誦、千僧供養遂、此御事過、伊勢國鈴鹿郡地頭、加若太夫和利御姫、廿七歳成、迎進、御輿乘入、姫君母御前入拜進、御簾際待進、保明走出、咹御覽候、咹程嚴候我子惡、中々是御返候惡、御入候、直垂袖顔押當、今女房輿内袖捶、咹程嚴御姫君爭惡、御將有、今心安候入、姫君五一重御裝束直樣刷、繼母御膝許近付、馴氣御在、繼母女房袖絞、而程兒持御前十三成、今女房御腹亦若君一人御在、前腹姫君、後世路友立儲、斜喜給、而程姫君御年十六歳春比、繼母女房御弟、加若次郎和理、廿一成押合、年月送、互御志淺御事、明暮程、姫君御年廿一、和理御年廿六申三月比、夫婦倶大神宮參詣、外宮内宮參、度々外宮内宮參、荒垣・圍垣内、伊勢國々司、在間中將基成云人、此女房見後、戀病成、片時忘病成悲、伺候人々申合、阿野權守召御覽候申、國司大喜、阿野召仰合、保明打小咲申、興御定哉、設無主娘候、我等下劣身、其恐有、況有主娘於、急立、國司力及、尚人々仰、御内談、或人申、加若次郎召、此國々司賜、平乞御覽候申、國司現、加若次郎召、此國汝賜、婦妻丸進、今以後都人、和理色打變、所領婦妻替申、鳥呼者候、召此國賜候、和理其體鳴呼者候出、其時國司腹立、阿野權守加若次郎、同心謀叛發、天下亂由讒言状書、御父關白殿進、關白殿大驚、彼兩人召取、禁獄悲、加若次郎和理下野國無漏八嶋下、彼國目代仰付、五六木以、身一入計逼樓造、釘外戸打、釘崎内出、身動、身立構、和理送者二首歌書、阿野北方進、
 ナクナミタムネノホノホニタツサエテムロノヤシマニモシホタクナリ
 我ナラヌ人モナケキヤ積リケルムロノヤシマニタエンケムリト
阿野北方此二首歌御覽、都思、佐遠別成悲、伊勢大神宮何捨、童諸共命召、倀焦哀也、御乳母子侍從局、同枕打伏悲、繼母女房諸人保明別云、御弟和理御別云、彼此打副、泣悲有様、喩遣方無、而保明罪科輕、本所返、繼母女房一歎止、和理北方世遁、深墨染身衰思食、只成御身悲、女性習、心任憂、今只旅道思立、東方思食、繼母女房同枕副伏、下野國近承上野國目代、藤原成次申、自和理甥侍、彼人許消息遣侍、其様相計有、御父保明泣々喜、佐申程、國司大勢阿野館押寄、和理女房海人五人召、魚類中何魚葬香有、御尋有、蚲○申魚其香候申、而各々其魚衍多取集進、五小袖取出、一賜、海人共大喜、五俵奉、茅萱中卷具、大幕引廻、人々集立、高念佛申、國司押寄見、人燒香上、高念佛申、此何尋、加若次郎殿北方御死去間、御葬送念佛申、軍兵共聞之、咹怖、當時御神事也、大神宮餘御神似、茫々歸、國司是程類無中思懸無由、返後都上、和理女房此跡阿野津遁出、東下、御乳母子侍從局許御友、男副旅道、何習御歩、道ハカチモ行、所々歩行程、尾張國熱田社付、鳥居外小家宿借、亭女房着々見、咹御勞、只成御事御在、内入留、明出、宿女房、御心安此御産有、五箇日留、加若女房外熱田大明神伏拜、抑當社明神申、御本地十一面觀音御在、我朝現國時、紀太夫殿宿借古御忘無、自旅奧哀祈念、程無産成、御友女房宿女房走寄、取擧見奉、玉如若君御在、宿女房御鵜羽湯進、七日御鵜立、樣々勞、旅道何、捨思食、飽別諸人形見思食直、御乳母子侍從局懷、泣々宿暇乞出、東山道懸、關大郎超、藍摺文直垂袴、地脛卷、編笠手持、下人男晝息處、破子解、此殿食、女房逹勸奉、漸下程、此殿二人女房逹合、何御下言、加若夫尋、上野國被答、其時此殿涙流咹勞御有樣、夫妻戀旅立爲師有云、女性尋旅道爲師希事、自送奉、少人下人男負、烈下、踏見度危、木曾懸地丸木橋、語盡下程、年齡三十四五見殿、梶葉直垂袴、通文脛卷、下女一人御友出來、此何旅人問、加若女房泣々、夫行末尋、上野國下打泣、此殿涙流、咹絲惜、天竺毘陀加女、夫跡歎、南底國渡、振旦兼防女、夫屍尋、晉陽州渡、本朝神功皇后、夫仲哀天王敵討爲、新羅國渡、今旅人夫跡悲、泣々下、東旅絲惜、御友仕、歩烈下、此處此殿御友下女少人負、上野國府廳付、前目代藤原成次替、北上野山代庄云岩下山里移、亦山奧尋入、二人殿原烈入、目代左兵衞督成次大喜、二人殿原其下人逹、樣々賞遵、夜明方成、是思苦候、成次下野國下、伯父候和理尋見度候、御客人逹吉々賞、女房預出、道烈二人殿原御友仕、三人烈出、下野國武漏八嶋付見、加若次郎斜誡、樓出便無、二人殿原神通現、樓守共深眠、樓戸引破、加若殿二人殿原舁懷出、宇津宮付、河原崎云處、四十計殿出來、二人殿原御雜事、此所出、彼此四人殿原、上野國山代庄入、和理北方互御目御覽合、何仰計、手々取組消入哀、其後時剋移、人心地出來、夫妻二世契云事實、語泣、々語、見人聞人袖絞無、加若殿原向、抑等助、互體相見御在、誰人御在候、打任凡夫見、願我等神道法授、心憂世中有候、我等別憂事便、惡世衆生利益歎、安御事、一人殿、我是尾帳國守護神、熱田大明神名乘、今一人殿、我是信濃國鎮守、諏方大明神是也、汝妻女夫跡慕悲絲惜堪、此程付廻守、而汝等二人神道法授、大仲臣經最要與、各々利生早神道身成、北方郡馬白井保内、武部山住、武部山住、今因位昔御名兒持御前申、我所住山、武部山云名引替、明神御名、兒持山書、子持山讀、本地如意輪觀音御在也、御乳母子侍從局、大鳥山北手向羊手木(鎭)守顯、本地文殊也、若君云岩下云處鎭守成、○東宮申、本地請觀音也、加若殿見付山手向神顯、御名乘和理申、和理大明神申也、和理書、和理讀也、本地十一面觀音也、彼御名乘付、山和理嶽呼也、其後二人神逹御歸有、加若殿、抑下野國宇都宮河原崎、御雜事候、誰御在候申、其人ウツノ宮大明神仰、加若殿夫婦倶神明身成給、イセノ國移、阿野權守夫婦倶神道法授、津守大明神、イセ大神宮荒垣内在即是也、其後伊賀國超、加若殿御父母倶神成進、鈴鹿大明神、伊賀國第三宮御在、尾帳國熱田御産宿、神道法賜神顯、鳴海浦島居明神立即是也、兒持御前繼母女房神顯、尻高云處山大明神申即是也、山代庄我妻合祝處、山代云名引替、吾妻呼、阿野津尾帳熱田馬乘進送人、神顯、其馬形移、岩尾山駒形、今至云處舍人馬一所立、白專馬大明神申即是也、故法花方便品、佛種從縁起、是故説一乘説、佛菩薩應跡示現神道、必縁起事、諸佛菩薩我國遊、必人胎借、衆生身成、身苦惱受、善惡試後、神明身成、惡世衆生利益御事也、鮃鮲云魚、我子代出燒、助神成故、子代云也、


 巻第七 卅六上野國一宮事

抑上野國一宮、拔鉾大明神申、人王廿八代、安閑天皇御時、我國來給、此帝御宇乙卯年三月中半比、上野信濃境、笹岡山鉾逆立御在、或傳阿育大王姫宮、倶那羅太子御妹云々、世繼七卷云、其由來委尋、南天竺狗留吠國人也、日本國渡故、此狗留吠國申、國數六千七百六十六箇國也、其國一人長者、玉芳大臣云者也、最愛娘五人、第一波羅奈國大王后、第二毘舎離國大王后、第三斯羅奈國大王后、第四沙陀國大王后、第五未在家、其名好美女云、國中無雙美人、依之舎留吠國大王后定、狗留吠國大王此由聞食、我國美人爭他國移、我國后定奉防、友父長者聞之、同十六大(國大)王后成、是程小國王后成用、其時狗留吠國王大嗔、押寄夜討給、其後好美女迎取、父母敵爭夫馮、此國内在、口惜敵詞聞、拔提河淺中、降魔鉾云鉾立、其上好玩團云團敷住給、此河深三十七丈、廣八十五里也、大王重嗔、其河申自知行内也、佐程賢女、敵人知行河内爭住有、好美女此仰本安内、件鉾引拔、云好玩團々二人美女持、天早船奉、好且・美好云二人船頭御友、信濃上野兩國境笹岡山付、御船山峯低伏々、船内持拔提河水中湛、却末代火雨々時、此水以消誓、其上住給程、諏方大明神母御前御在日光山通程、互相見、夫婦成給、諏方大明神本北方諏方下宮、腹立由聞、面現近人肝身立事由無、上野國十四郡内、笹岡甘樂郡尾崎鄕出山成、御社立住、美女一人此船守、笹岡山留、今世荒船明神申即是也、好且・美好御友二人船頭末、今代尾崎檢務二人祝大明神宮官也、彼明神御本地彌勒御在、縁結衆生、必五十六億千萬歳後、慈尊出世三會曉、決定成佛見、抑尚當國赤城大明神一宮御在、赤城二宮成、他國御神拔鉾大明神一宮成給、由緒承、赤城大明神絹機織程、笳半不足何思食煩、實狗留吠國好美女財君御在、定絹笳御用意有、以美女借申、是織懸侍、御事缺侍、笳半侍、借進也、赤城明神大喜給織程、絹一疋織盡、喜申有後、是程財君爭他國移、我御身一位去、二位移、好美女一位移、當國一宮祝奉、鉾引拔腋挾、抜提河此國飛故、拔鉾大明神書、鉾拔神讀也、


 巻第七 四十上野勢多郡鎭守赤城大明神事

抑赤城大明神申、人王十八代帝、履中天王申、仁德天王太子也、庚午年御即位(在位)六箇年、此帝御時、世覺朏公卿一人御在、御名高野邊左大將家成申、靈景殿女御無名立、上野國勢多郡深栖鄕云山里流給、北方引具給、田舍年月送程、若君一人・姫君三人御在、始若君御成人後、御年十三中、御母方祖父馮、都上、祖父祖母大喜給、帝御見參進給、帝御叡覽有、汝父有、其子罪科有、召仕、田舍御不審俳、三人姫君逹、田舍年月送程、大將殿北方、三十八申春中半、墓無成給、三人姫君逹枕立跡伏、何母御前、十一・九・七我等誰預、何御在、何野末山奧引具給、末廿十足稚幼女子、末盛母別程冥加無身共、九重淵底、母御前在、我等行住、千丈猛火中、母御前住給、我等御友申、聲調喚叫倀焦給、御父大將殿始奉、卑夫卑妻至泣悲有樣、偏叫喚地獄如也、此如泣悲云、死云文字悲、返事聞口惜、三箇日過、當方葬送、御骨二分、一田舍收給、孝養數盡、一都奉給、嫡子若君、其比左小將御在、實御骨取付、倀焦給哀也、北方御父母、御骨入袋胸當泣悲、袖絞人無、佐亦有事、大和國山邊郡陵築收、御孝養淺、世間習、大將殿其年秋半、亦北方儲、其北方申、信濃國更科郡地頭、更科太夫宗行娘也、形故御前程御在、世常超人、類無思食、年月送給程、亦此御腹姫君一人御在、此姫御年三歳申夏比、都御使在召上洛、次年春末、日夜間無奉仕、帝御感有、上野國々司成給、喜申過國下、折節都三人姫君逹面々聟取給、斯程内裏宣旨成、此計秋都候、冬成下、仍亦留、御宮仕懃、大將殿御使以姫君逹御乳母共許、姫君逹御立共營被仰下、御乳母共耳○急、繼母女房此由聞食、恨、我子人數思、何聟取、亦前腹子共重家上﨟成、恨山敷思、繼母繼子御中惡成悲、更科女房心内思、前腹三人子共失、我子都上、太政大臣・關白殿聟取、童一門々繁昌思、三人姫君逹失議、姉御前淵名次郎家兼養進、淵名姫名、淵名莊御在、次姫君大室太郎兼保養進、赤城御前、大室宿所御在、乙姫君郡馬郡地頭、有馬伊香保大夫伊保養進、角田河西御在、或晩傾、繼母女房舍弟、更科次郎兼光云者、死生不知戎也、此近付仰、前腹姫君逹何々形嚴、楊貴妃如、李夫人似、何有、御邊合嫌、何々田舍山卑山縁夫體見聞云口惜、同兄弟乍云、和殿殊眤思、加樣男片輪申付悲、自男子食、此恥雪有、本物覺死生不知戎上、極聞腹惡俗、踊擧々々(齒)、恥雪命生何瞋、繼母女房誑勝喜、而耶殿、其意趣遂事安、明日成、赤城山狩庭囘催、自河東者共、誰寄、其時山中、淵名大室討程、其跡亡事安言、更科次郎大喜、明日赤城山七日卷狩催、國司御使、射手々々多込、次日午剋計、手抄體召拔々々呼出、太室太郎淵名次郎搦取、是非云、黑檜嶽大瀧上横枕藤井切、其日晩傾、淵名宿所押寄、御乳母淵名女房淵名姫搦取、二人、大簍作、其中迫入、利根河倍屋淵沈悲、其後大室宿所押寄、大室女房取物取敢、姫君肩引懸進、後赤城山逃入給、淵名女房後山有、何伏混可成、哀御事也、赤城御前大室女房具、山入給、行方知迷、大室太郎宿所押寄、三方火懸、南一方計闕、女房逹始卑夫卑妻至、若走出、此井大室婦妻、打殺切殺、只徒女童共、火遁者矢前遁、矢前遁者火遁難、死屍○燼成悲、其後郡馬郡有馬鄕、伊香保大夫宿所押寄、伊香保姫取聞、伊香保大夫大驚、子共九人・聟三人大將軍、利根・吾妻兩河落始、見屋椙渡至、十三箇所城郭構待、左右無河西寄、故伊香保姫煩無、淵名姫、十六歳申神無月始、伏混成給、前世宿業口惜、將又今生現報力無、惜云中々愚、大室女房山逃入、去來我君、別諸人切候、黑檜嶽尋、男副深山振、岩間傳石細道、思遣悲、峯上、何諸人、童參呼、我呼聲響、谷下、何大室殿、絲惜、赤城御前御在也、昔聲今一度聞進給悲、只徒木魂コエ計答、太室女房叫給、姫君雛若聲付、是程果報拙自引具、斯歎見給悲、山神護法木々魂、命召焦、二人女房逹谷叫(峰)喚、哀訪人無、雲宿薄下伏、岩根枕苔筵、取集歎喩方無、大瀧上横枕藤井云處見、谷方形嚴女房一人來、自夫訪身也、驚事勿懃訪、自菓子懷取出、二人女房逹與、各々此口含、其味忉利天甘露如、以之此程疲息給、是五六日過、大室女房、御年四十一、墓無成、昔今至、夫慕女性多、斯爲師希、梵漢和州其中、身亡心傷事、多此道起、天帝釋舍脂夫人、銀漢牽牛織姫女、摩耶夫人白淨王、波斯匿王末利夫人、悉逹太子耶輸多羅女、離垢淨王陀沙妙夫人、阿難尊者摩登迦女、難陀尊者尊陀羅女、此等皆夫婦深契、又聞、漢契連枝木、漢夫比翼鳥、亡夫石燧野森、三輪谷、中將塚、亦是伉儷深由來、今大室太郎婦妻爲師少聞、姫君空死屍副伏、我引具行焦、斯處赤城沼龍神、唵佐羅摩女出來、嚴女房形、閻浮提命夢幻如、憂所、龍宮城申、長壽快樂多、去來引具、赤城沼龍神跡繼、赤城大明神顯給、大室太郎夫婦共從神王子宮顯、其後繼母女房更科次郎、一國成敗思成、月日送、此衍田舍事佐置、大將殿上野國々司預玉、被下、國中軍勢數千騎勢、御迎打上、駿河國云洋津處、國司參合、其夜或人、國司御前田舍有様委申、國司大驚、呼何事實計仰、速其後物不仰伏沈給、五更天明、三人姫共空成上、爰左右成思、同下、彼等死所見左右成下、御馬上危見、都出日洋津宿至、晝御馬上詠歌聲、夜旅宿内管絃講、佐昵、今日亦朝立始、御迎人々御送殿原、打被下、袖涙捶、心暗迷有様、申中々愚、日數漸積、深栖御所渡、廣縁辷伏、淵名姫何、赤城御前在、我娑婆留置給、何三人子共行列如山路迷、赤城御前赤城山入聞、今野千食散、行見中々心憂、淵名姫倍屋淵沈、倍屋淵行、旅御裝束俳、河岸下居、淵名姫無、自參、昔體見叫、良且有、波中姫君離御父時御裝束、淵名女房手々取組、顯出、繼母御不審蒙、淵底沈、日一度母御前忉利天々下給、赤城山此淵通給、天上天甘露與、飛行自在身成、甘露上乘御法説給、前世罪垢皆消、赤城御前自諸共神明形顯、恵惡世衆生先逹成、三會説法曉解脱德得、菩提薩埵名、必父御前引導奉言、赤城山上紫雲倍屋淵引覆、音樂聲聞、暇申父御前數多聖衆交、孤雲差入、大將殿此御覽、列行我子、則倍屋淵飛入給、此紫雲亦立返、倍屋淵覆、昔今至、子思人親多、忽身亡人爲師無、其後倍屋淵源成、今世簍淵申、其後郡馬郡地頭、伊香保大夫、自河西七郡内聞足早、羊云太夫人召、文書、二人姫君幵大將殿御自害事都申、此羊大夫申、午時上野國多胡莊立都上、未時御物沙汰合、申時國下付間、羊大夫申、故此人、申中半上野國郡馬郡有馬鄕立、日入合三條室町付、都大將殿御嫡子左小將殿、其此中納言御在、二人御妹・御父大將殿御自害文御覽、大驚給、取物取敢、其夜丑中半三條室町屋形立給、東國下給、急度御事、主從七騎過、帝此由聞食、不思議中納言有様哉、不便思食、甲斐無、何自知、都一番早足召、東海・東山諸國軍兵共、高野邊中納言東國下見放、宣旨書賜、相構中納言先走通、道々觸下仰付、彼宣旨御使、愛越河三日路先立、國々宿觸先通々々下、中納言殿都主從七騎出、美濃國靑墓宿付給、其勢一千餘騎成、參河國八橋付給、三千餘騎成、駿河國神原宿付給、一萬餘騎成、足柄山越、武藏國府付、五萬餘騎成、上野國々司下聞、更科次郎繼母女房信濃逃超思、伊香保大夫、碓井手向無二峯關居、卷入守、遁出方無、國司中納言殿深栖御所入、兵共仰付、更科次郎父子三人搦取、庭上引居、國司子細召問後、憂者頬見心憂、子共二人欣如、赤城山黑檜嶽東、大瀧家横枕藤井谷切、首古木枝懸、淵名次郎家兼、大室大郎兼保、二人後生、修羅身替手向、其後更科次郎吉々誡、倍屋淵引具、船下引擧、七十五度擧、沈責、死生不知荒戎、聲擧喚、首召叫、國司聞食、淵名姫、淵名女房佐悲思知、更科、我恨事、沈石頸付、淵底入、生死報有云事、誠哉、繼母女房本好事、同淵底思、父且思食御在上、妹姫候、爭情無在、仍只國境追、本國信濃國追超、見人聞人爪彈惡人無、繼母女房泣々更科父宿御、親子中、惡扶持程、信濃國々司、高季階大納言高季、上野國々司元服兄御在、不思議、中納言有樣哉、父兄妹敵助、我國追超事謂無、斯怖者扶持親鬼、更科大夫夫婦共失、事巳後甥更科十郎家秀馮來、誰故祖父祖母始、一門亡此人故、編駄云物乘、母子二人、更科山奧宇津尾山捨、折其夜夕立茂、母子倶雷爲蹴殺無慙、其時彼宇津尾山、彼姨母捨故、伯母捨山云、而程、上野國々司、御父御妹亡跡神崇、淵名明神申即是也、今赤城沼行、赤城御前見、御登山有、黑檜山西麓、大沼岸下居、奉幣、大沼東岸、障子返云山下、鴨云鳥一浮出、其鳥左右翅上、玉御輿有、御妹淵名姫赤城御前、一輿乘、淵名女房大室女房、二人姫君逹御後參、淵名次郎大室太郎、御輿左右轅取付、械色狩衣透額腰太刀帶、御友立、國司御涙咽給、二人姫君逹、兄御前左右御袂取付、何兄御前、我等此山主成、神通德得、妹伊香保姫神道法悟、惡世衆生導身成、君亦我等同心神成、母御前忉利天下、語連涙流、國司聲立泣處、母御前紫雲乘、三人子共御在、天上不退法説、各々歎事、何事先世宿業、今衆生利益思任、五十六億七千萬歳後三會説法曉、一會聞法聽衆擧、二人姫君逹歸給、其跡鴨、願此沼留嶋成、來世衆生明神威德顯、尤然、此鴨大沼中留嶋成給、今代小鳥嶋申即是也、其後國司大沼出、小沼岸通給、御父大將殿顯出、子共行末見繼是侍、
語連泣、國司袖絞、番匠共召集、大沼小沼御社立奉幣、楢此山名残惜、小沼宮川三箇日御逗留有、此所宮澤申、其後國司郡馬郡地頭、有馬伊香保太夫宿所入、御妹伊香保姫急御出有、兄御前膝御額懸、消入、國司倶聲立焦、伊香保大夫女房急參、左右呼進給、國司仰、今我等兄弟二人成、自都上、此國々司和御前進也、伊香保太夫後見、萬政正、此國安穩持給、伊香保大夫女房、此姫君吉々育給、聟別人有、小舅御在候、高光中將殿聟取、國司職伊香保姫同心御計有、國司都上、其後伊香保太夫國司御後見、今目代殿、有馬分内狹處、郡馬郡内、自在丸云處、御所立居、今世總社立給處、彼伊香保姫御在所跡、


 巻第七 卌一上野國第三宮伊香保大明神事

抑伊香保大明神申、赤城大明神御妹、高野邊大將殿第三姫君也、前國司高野邊中納言殿御小舅、高光中將殿御契深過程、姫君一人御在、上野國々司他人移、都思食、北方離難、姫君捨思食、北方御乳母、先目代、有馬伊香保大夫許御在程、北方伊香保姫、御父姫姉御前逹亡魂奉弊爲、淵名社參給、返給、営時國司大伴云大將人、中渡云處河狩、御輿御簾間、只一目見後、忘難、内縁取御消息進、敢御用無、此早穗出、我當職威勢重、人巳職誰隨、押寄奪、大勢共責懸、伊香保大夫、子共九人・聟三人大將軍防戰、今國司大勢、有馬分内狹處有、自四万火懸責、伊香保大夫、主伊香保姫母子二人、我女房幵御娘石童御前、御妹有御前始、五人女房逹引具、郡馬郡白井保内、兒持山入、高光中將殿、痛手太多負御在、伊香保太郎宗安肩引懸進、猛火中飛入、倶失、今國司仕出事無、國軍勢多亡、都友下輩、國司兄弟一族太討、我身大事痛手七所受込、生年卅七、朝露消、伊香保太夫、五人女房逹、兒持山赤城山預進、我身都上、帝御見參々、委細此由奏聞、帝聞食、主君助賢人又天竺・震旦・我朝其例多云、是程人非、更科繼母時云、高野邊中納言時云、代々主君助志、漢家本朝有難爲師、早國罷下、國司伊香保姫持、高光中將娘都進、高光形見可御覽、汝本如國目代、其政收、勢付下、伊香保太夫下、五人女房逹兒持山出給、府廳入、人鳴呼事尋、大將留、國威勢伊香(保)姫持進、伊香保目代職、子共九人亡魂、九箇所社奉弊、三人聟共、三所明神顯、高光中將殿御骨、伊香保山東麓、岩瀧澤北岸、梨手云小澤、今代水梨木有承、此所寺立、郡馬郡寺領、過去聖靈、
伊香保フモトノミユニタムケシテクルシキコケハ又モステネン
此歌心見、彼國司罪垢云意見、


 巻第八 卌三上野國赤城山三所明神内覺滿大菩薩事

抑此明神者、人王大廿代帝、允恭天王御時、此比叡山西坂本、二人僧、兄弟也、兄云近江竪者覺圓、弟美濃法印覺滿申、主上々皇御國諍有、世亂、兄弟引込、千部法花經讀踊給、父軍被打、今只母有、其父三條藤左右衞門尉國滿申、新院軍負押込、主上大御逆鱗、新院御方兵共、七箇日内百六十餘人死罪行、國滿一方大將軍、首誅、此等皆名得、大名逹也、其外軍兵數知、斯京都歎、邊土騒事斜、此人々一方大將軍子共、覺圓覺滿、兄弟召執、禁獄、母歎、喩取物無、母樓戸叩、喚叫倀焦、子共樓内、聲調喚、見人聞人、袖絞無、七日過、内裏儉非違使仰付、三條河原切由仰蒙、兄弟二人引具、三條河原出、兄弟二人僧逹、我等宿願空事歎、母亦二人子共別悲、二人僧逹首座引居、最後十念及、母二人子共中走入、先吾首召、武逹、誰子孫持御坐者、別諸人朝敵成切、子細及、此子共有思吁歎、此子共、失何、吾首先召、何菩提倍、願此由聞入焦、母左袖兄覺圓頸打懸、右袖弟覺滿頸打懸、幾程(命)惜、倀焦哀也、二人子共見之、母疾々返、父冥途御在、母娑婆留、娑婆依身、一門廣御在、御命一門中助御在、冥途父我等誰仕、母子共問答聞、袖絞人無、母叫聲、子共流涙、何劣、即今成、比叡山御巓上、紫雲二村出來、一村雲首座覆、一村雲内裏上覆、内裏月卿雲客座烈、僉議區云、法師首左右無誅事先例聞、何況、讀誦大乘行人共、何學匠共、一乘妙典讀誦、常住三寶貴處也、聽聞隨喜功德、梵王帝釋收處也、母子永別悲、堅牢地神此歎、五體不遍歎、切人被切人、倶佛道近付、人々此目、政々此哀例、故邪見窓閉、慈悲床在云々、其時帝大驚、二人僧逹召返、今以後千部讀踊御旦那成、近江國志賀郡、讀踊時米、本西坂本料所寄進、兄弟二人御房逹大喜、法花堂立、此堂供養、千部御經供養、讀踊院名付、一人老母養育程、母墓成、二人僧逹、今此世思置事無、世間名利抛、志賀郡上進擧、去來、兄弟烈三界火宅出、諸國修行、淨藏淨眼兄弟、父妙莊嚴王汲引昔恨、早離速離兄弟二人、紅桃浦繼母遠流縁、等覺無垢大士、觀音勢至跡學廻程、四國内伊與國三嶋郡、兄覺圓、最後里搖、諸人告、耳目驚程大往生遂、弟覺滿、兄骨取頸懸、西坂本法花堂返、父母墓並收、其後覺滿、近江國鎭守、兵主大明神七日參籠、願明神、此生替、慈尊出世合程利生授給、法花經讀誦、小鳥嶋方、形嚴女房美女人御友、太多菓子共持、御經聽聞後、菓子美濃法印覺滿前居、見夏桃、此得食、味甘露如、色西王母苑桃似、其後彼女房語言、御經聽聞、隨喜涙更不留、同釋文聽聞、一人美女嶋中返、良且有來見、一人童子紫檀禮盤檀聲磬臺取副來、法座儀式申中々愚、心詞及、法印禮盤登、本内外典學匠、序品始、廿八品釋文、心詞及貴、當國山神逹申及、他國隣國山神逹來集聽聞、七日七夜法會、第五日當日、更科繼母女房山神眷屬成、更科山々神烈聽聞爲來、小沼龍神申、更科女房昔殿、高野邊大將殿御在、縁結爲、小沼岸來、大沼赤城御前、心憂人體見口惜、小沼大沼間、俄小山出、我體見不思議也、日本記屏風山名、隔山申即是也、大將殿怒成追返、泣々更科返哀也、七箇日法會過、八萬山神逹、思々心々本山返、赤城御前釋文演説御隨喜、大沼留給、今覺滿大菩薩號、赤城山禪定立、赤城山三所明神顯、大沼赤城御前、今赤城明神、御本地千手也、小沼御父高野邊大將殿也、今小沼明神、御本地虚空藏菩薩也、山頂美濃法印覺滿也、今赤城山々頂、覺滿大菩薩御本地々藏菩薩也、當知、諸佛菩薩寂光都出、分段同居塵交、惡世衆生導爲、苦樂二事身受、衆生利益先逹成給、故覺滿大菩薩御誓、我山眼懸輩、此歌詠、我必其所影向、萬事所願滿足有、
 チハヤフル神風タエヌ山ナレハミノリノ露ハ玉トナリケリ
心有人々、誰此信仰、此山向人々、誰此歌眞實讀云々、

毛野研究會